競馬好きのライターが送るウマ娘コラム第21回。今回は、みんなのお姉さん的ウマ娘、スーパーカー「マルゼンスキー」について熱く語ります。
みんなのマルゼン姐さん
ウマ娘界のバブリーお姉さん
ウマ娘プリティーダービーに登場するウマ娘の中で、お姉さん的な立ち位置のキャラクターと言えば、生徒会長シンボリルドルフ。そしてもう一人がマルゼンスキーだろう。バブルを知る?数少ない世代のウマ娘として、時代遅れの流行語を巧みに操り後輩ウマ娘にまったく理解されないこともあるが、みんなの憧れの存在でもある彼女。
ゲーム内でも猛威を振るう水着verの性能はまさにスーパーカーの異名にふさわしい。今回はそんなマルゼン姐さんの史実を追っていく。
8戦8勝、着差61馬身
規格外のスーパーカー
引用元:JRA日本中央競馬会
マルゼンスキーと言えば、言ってしまえばひと昔前の馬である。にも関わらず、「日本競馬史上最強の馬は?」という類の質問があれば必ず名前が挙がる馬の一頭だ。生涯戦績は、8戦8勝。2着馬につけた着差の合計は61馬身と、ゲームならまだしも現実の世界では信じられないような数字である。これだけで規格外の強さが分かるというものだ。
当時の流行になぞらえてつけられた異名は「スーパーカー」。持込馬のマルゼンスキーに対して、外国製の高級スポーツカー並というのはうまい例えだったのだろう。
持込馬とは
外国産馬との違い
マルゼンスキーを語る上でまず知らなければならないのは、生まれによる境遇である。マルゼンスキーは前述の通り「持込馬(もちこみば)」という分類にあたる。外国産の繁殖牝馬が現地で種付けされて受胎した状態で輸入され、その後日本で出産した場合、その仔馬が持込馬という扱いになる。
海外で産まれた場合は外国産馬という分類になり、その時代によって出走可能なレースがそれぞれ制限されるなど扱いが異なる。
持込馬不遇の時代
マルゼンスキーの走った1976年~77年にかけては、持込馬にとって極めて不遇の時代だった。なぜなら、外国産馬および持込馬はクラシック三冠や天皇賞を含む八大競争と言われるレースのほとんどに出走権が与えられなかったのだ。
正確には、持込馬が外国産馬と同じ扱いを受けたのはこの時期に限られる。1971年~1983年までの間、内国産馬(国内の生産馬)の需要を保護するため持込馬は外国産馬と同様に厳しい出走制限が課されていた。
八大レースで唯一出走できたのは暮れのグランプリレース有馬記念。ジャパンカップの創設が1981年、NHKマイルカップの創設は1996年。そもそも外国産馬に門戸の開かれたレースは数少なかった。
つまりマルゼンスキーが走ったこの時代、クラシック期にはG1級の大きなレースにはほぼ出られなかったことになる。
グレード制について
ついでにグレード制について簡単に解説をすると、G1、G2といったレースの格を表す分類がなされたのは、1984年にJRAがグレード制を導入してからになる。マルゼンスキーの8戦8勝の戦績の内、現在のG1にあたるレースは朝日杯のみである。
誕生~仔馬時代
名血統
マルゼンスキーは、アメリカ産の母シルと、イギリスの三冠馬ニジンスキーの間に産まれた仔である。競馬の祖国であるイギリスでのクラシック三冠馬は、1970年に達成したニジンスキー以来出ていない。
それだけ歴史的な名馬である。母のシルも良血の繁殖牝馬だったことから、約9000万円という高額で落札されて日本へやってきた。マルゼンスキーは折り紙付きの名血統と言える。
デビュー前の評価
マルゼンスキーの馬体はニジンスキーによく似て見栄えのする好馬体だったという。ただ、「外向」と言って脚が外向きに曲がっていた。よく人間でもO脚とかX脚とか言うが、同じように表現するとA脚。
膝から下が外へ向いて曲がっているため、問題は強い調教に耐えられるかどうかだった。マルゼンスキーはこの外向が原因でデビュー前の評価は分かれていた。
2歳時
デビュー戦
前置きが長くなったが、ここからマルゼンスキーのレースぶりを追っていく。デビューは10月の中山競馬場芝1200m。調教はセーブせざるを得なかったものの、それでもその血統背景と動きの良さから1番人気に支持される。
結果は大差をつけての圧勝だった。スピードの違いで先頭に立つと、そのまま逃げ切り勝ち。1200mの短距離戦で2着に2秒もの差をつけることは、新馬戦とは言え並みの芸当ではなかった。
2戦目
衝撃のデビュー戦に続き、同じ中山芝1200mの2戦目も9馬身差をつけて逃げ切り圧勝。もはやその秀でたスピードは疑いようがなかった。
3戦目
マルゼンスキーの主戦騎手・中野渡騎手は、デビューからの2戦でマルゼンスキーの能力に絶大な自信を持っていた。それが3戦目の府中3歳ステークス(現・東スポ杯2歳ステークス)であわや敗戦という油断に繋がることになる。
「どう乗っても勝てる」という気持ちから、仕掛けのタイミングが遅れたマルゼンスキーと中野渡騎手は府中の長い直線で相手のヒシスピードとびっしり追い比べとなりハナ差の辛勝。写真判定での際どい勝利だった。
ただし3着馬には10馬身差をつけていた。
朝日杯3歳ステークス
辛くも無敗を守ったマルゼンスキーは、2歳(当時の3歳)シーズンの締めくくりとして朝日杯3歳ステークス(現・朝日杯フューチュリティステークス)に出走。世代のチャンピオン決定戦であり、持込馬にも出走権が与えられていた。
前走で際どく迫られたヒシスピードも出走していたが、今度はまったく寄せ付けない圧勝劇を見せつける。先手を奪って逃げの戦法をとると、離れた2番手で追走するヒシスピードに陰も踏ませず直線では突き放す一方となる。2着ヒシスピードに13馬身の大差をつけ、2.2秒もの差をつけた勝ちタイムは当時の3歳レコード。その後14年間も破られることがなかった好記録だった。
負けたヒシスピードの小島太騎手に「バケモン」と言わしめ、あまりの強さにこのレース以降マルゼンスキーとの対決を他の陣営が避けるきっかけになった。
3歳時
少頭数でレース不成立?
3歳となったマルゼンスキー陣営は、中京のオープン戦芝1600mに出走登録。すると、マルゼンスキーとの対戦を避けて他陣営が出走回避をする動きがあり、5頭の最低規定頭数に達しないという事態に。
これに対し、関西の服部正利調教師が「不成立にしたら関西の恥」と自厩舎から2頭を出走させるという男気によりレースが無事開催されたという逸話がある。その際、「タイムオーバーの大差は勘弁してくれ」という注文がついたという。(タイムオーバーになると出走停止などのペナルティが与えられるため)
結果はマルゼンスキーが2着に2馬身半差で5連勝をおさめた。
骨折休養
5連勝のあとは、きさらぎ賞を目標としていたが膝を骨折してしまい休養。復帰には3ヶ月を要したが、5月の東京芝1600mのオープン戦で復帰した。復帰戦は不成立の危機もなく8頭立てで行われ、これを1番人気で危なげなく7馬身差勝利。6連勝で無敗を守った。
マルゼンスキーをダービーに
この数週間後に行われる日本ダービーには、冒頭で解説したとおり持込馬であるマルゼンスキーには出走権がなかった。それに対し、主戦の中野渡騎手は「28頭立ての大外枠でもいい。賞金なんか貰わなくていい。他の馬の邪魔もしない。この馬の力を試したいからマルゼンスキーに日本ダービーを走らせてくれ」とコメントしたのは有名な話である。
当時の競馬ファンも同じ気持ちだったに違いないが、国内の生産者を守るためという大義を考えれば実現は難しかったのだろう。
残念ダービー
ダービーに出走できないマルゼンスキーは、残念ダービーとも呼ばれる日本短波賞(現・ラジオNIKKEI賞)に出走する。このレースはマルゼンスキーの出走レースの中でも怪物ぶりを表すレースとして語られることが多い。スタートからいつもどおり軽快に逃げるマルゼンスキーだったが、3コーナーから最終コーナーにかけて失速して一旦は後続に追いつかれてしまう。
故障でも発生したかと観客席がどよめく中、気合いをつけられると再び加速して立て直し、直線では後続を突き放して終わってみれば7馬身差の圧勝。2着馬はのちに菊花賞を勝つことになるプレストウコウだった。この型破りなレースぶりには、のちにビデオで観た筆者も衝撃を受けたものだ。
出走できるレースを求めて
目標となるような大レースにはことごとく出走できない境遇のマルゼンスキーは、札幌のオープン戦、ダート1200mに登録。5頭立ての少頭数のレースは、結果的にマルゼンスキーの現役最後のレースとなる。このレースで同世代のヒシスピード以下に10馬身差をつけて快勝。初のダート戦でも楽々とレコードタイムを出し、改めてその絶対的なスピード能力を印象づけた。
大レースを前に怪我で引退
クラシックに出られず、ずっと裏街道のようなレースで強さを示し続けてきたマルゼンスキーが、ようやく立つべき大舞台を迎えるときがやってこようとしていた。年末のグランプリレース有馬記念である。持込馬にも出走権が与えられていた数少ない大レース。
これまでマイルや短距離ばかり出走していたが、それは適したレースがなかったからだった。スタミナにも不安を持っていなかったマルゼンスキー陣営は年内の最大目標を有馬記念に据え、翌年は凱旋門賞挑戦プランまで考えていた。
しかし、残念ながら有馬記念を目指す道半ば、調教中の怪我が重なり引退を決断するに至った。復帰できないほどの重傷ではなかったそうだが、もともと外向の脚はさらに大きな怪我のリスクを抱えており、種牡馬としての役目を優先した結果だった。
種牡馬として
父として
引退後は種牡馬となり、自身が果たせなかった大レースでの勝利を産駒たちが叶えた。大外枠でもいいから出たかった日本ダービーをサクラチヨノオーが勝ち、ホリスキーとレオダーバンの2頭は菊花賞を制した。父が現役時代に見せることができなかった長距離レースでのスタミナを産駒が証明してみせた。
母父(祖父)として
マルゼンスキーの種牡馬としての仕事で特筆すべきは、母の父としての実績だろう。マルゼンスキーを父にもつ繁殖牝馬は、多くの名馬を輩出している。ライスシャワー、ウイニングチケット、スペシャルウィーク、それから最近登場したメジロブライトも母の父にマルゼンスキーを持つ。中距離から長距離を得意とする馬が多く、現在でも主にスペシャルウィークの産駒を通じてマルゼンスキーの類まれなるスピードとスタミナは脈々と受け継がれている。
ありがとう、ウマ娘。
ありがとう、マルゼンスキー。
史実のマルゼンスキー
基本情報 | 1974年5月19日生 牡 鹿毛 |
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血統 | 父 Nijinsky 母 シル(父 Buckpasser) |
馬主 | 橋本善吉 |
調教師 | 本郷重彦 |
生産牧場 | 橋本牧場 |
通算成績 | 8戦8勝 |
主な勝ち鞍 | ’76朝日杯3歳ステークス |
生涯獲得賞金 | 7660万円 |
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