競馬好きのライターが送るウマ娘コラム第73回。今回は、連戦連敗で人気を博した高知競馬のヒロイン「ハルウララ」について熱く語ります。
連戦連敗で話題
大ブームに
生涯成績113戦0勝。
ウマ娘では、アニメでもゲームでも元気いっぱいのマスコットのような存在のウララちゃん。初期メンバーでありながら当コラムでは初登場である。その理由はいたってシンプルで、成績から分かるとおり史実で取り上げるべきレースがほとんどないのである。
地方競馬の高知競馬に所属してデビューから引退までひたすら負け続けたハルウララの史実を追っていく。
デビュー前
血統
ハルウララの血統は、父ニッポーテイオーに母ヒロイン(父ラッキーソブリン)というもの。名マイラーだった父も輸入種牡馬だった母の父ラッキーソブリンもどちらかと言えば芝に適性のある産駒が多かったが、生まれたときから小柄でセリに出しても買い手がつかなかったハルウララは生産牧場所有のまま地方競馬の高知競馬に厩舎を構える宗石大調教師に託された。
調教もひと苦労
入厩したての頃は、臆病な性格だったこともあり鞍などの馬装を着けるだけでも嫌がって暴れたり、運動させようとすると動かなかったりで調教するにもひと苦労だったそうだ。
ウマ娘でもハルウララの育成を開始するとすぐに無邪気な彼女に振り回されるトレーナーの姿を見ることができる。
競争生活
デビューから連敗
2歳の11月に高知競馬のダート1000mでデビューすると、5頭立ての最下位。デビュー時の馬体重は397キロと小さかったが、引退する頃には420キロ程度まで成長した。
デビューからしばらくは下位の着順に沈み続けるが、3歳になって2月以降は4着、3着と徐々に着順を挙げていき、5月には1番人気を背負ったことも。それでも勝ち星は遠く、あれよあれよと未勝利のまま18連敗を喫した。
もっとも勝ちに近づいたレース
3歳10月のレースで、ハルウララ113連敗の歴史上、もっとも勝利に近づいた瞬間が訪れる。
8頭立ての1300mのレースで、2番人気だったハルウララは1番人気で勝ったポットマンダイナという馬にタイム差なしのクビ差まで迫ったのだ。
連敗街道
初勝利も近いように思われたが、それ以降はなかなか上位に食い込むことができず負け続けた。4歳時は一度も3着以上に入れず4歳の暮れの時点で41連敗。
5歳時は二度の2着と3着が一回。出走手当と時々賞金を稼ぎ出し、なんとか自分の預託料がトントンになるくらいで競争生活を続けていた。
とにかくレースにたくさん出走できる丈夫さが、ハルウララが現役を続けられる唯一の支えと言えた。毎月の預託料が獲得賞金を大きく上回ると、「家賃が高い」といって引退を余儀なくされる馬も多い。
転機
ハルウララにとっての転機は、自身の勝利によってではなく突然訪れる。2003年、デビューから80連敗以上を記録していたハルウララの連敗記録が話題となり、一躍全国にその名が知れ渡った。
その頃、財政難で存続の危機に直面していた高知競馬にとってハルウララの存在はひと筋の光となっており、様々なPRが行われた効果も大きかった。
ハルウララブーム到来
新聞やメディアで大きく取り上げられ、やがてハルウララは「負け組の星」とか「リストラ時代の対抗馬」といったフレーズで人々に勇気を与えるヒロインとなっていく。
ハルウララの単勝馬券は交通安全のお守りやリストラ防止として崇められ、馬券売り場には行列ができた。この頃からハルウララの単勝人気はずっと1~3番人気といった上位人気をキープし続ける。当時の高知競馬では券面に馬名の印字ができなかったためにわざわざ馬名入りのスタンプが作られたそうだ。
レース名もハルウララ仕様に
90連敗を超えたあたりからは、ハルウララが出走するレースには毎回特別な名称が与えられるようになる。「頑張れ!!ハルウララ・陽香特別」に始まり、「ハルウララを応援する重松清特別」や、「ウララの本04年1月刊行決定特別」というあからさまな宣伝文句がそのままレース名になることもあった。
ついに100連敗
ついに大台の100戦目を記念して行われた「ハルウララ100戦記念」はひと際大きな話題となったが、そんなことを知ってか知らずかハルウララは1番人気で9着と大敗した。
連敗が話題になり始めた当初から、調教師や厩舎関係者は負けることを大きく取り上げられることに疑問を抱いていたとも伝えられており、あくまでも1勝を目指す当事者にとっては、負けることに価値を見出した一連のブームは歓迎すべきことではなかったのだろう。
ハルウララに武豊
ブームのピーク
ハルウララブームの最高潮は、2004年の3月に行われた「YSダービージョッキー特別」。その日、交流重賞の黒船賞に騎乗するため高知競馬場にJRAから武豊騎手が参戦。同日のハルウララの騎乗依頼を受けて1日限りの夢のコンビが実現したのである。
と言っても当の武豊騎手は当初は冷めた反応を見せており、自身のブログにも過熱気味のブームに対する複雑な心境を綴っていた。
しかし、実際に高知競馬場での盛り上がりようを目の当たりにして心境が変わったという。レース結果は10着に終わったにも関わらず、ハルウララを「名馬」「スター」とまで表現してその存在を認め、称えた。
113連敗、引退
その後も「『ハルウララ賛歌』発売記念」(これもレース名)では自身5回目の2着を記録するなど、決して勝ちを諦めたわけではない全力の姿を最後まで見せてくれたハルウララは、生涯成績113戦113敗をもって引退した。
引退前後にはハルウララを取り巻く環境が騒がしくなり、週刊誌を賑わすような事態となったが、当コラムではその辺は触れないでおくこととする。
今なお健在
高知競馬を救ったヒロインは今
そんなハルウララは、27歳となった2023年2月現在でも健在である。
現役時代は走っても走っても勝てなくて、それでも走り続けてまた負けて。負けることで大ブームを巻き起こした結果、人々に翻弄された可哀想な馬と同情されたこともあったかも知れない。
当時は色々な意見があったのも事実だが、そのブームのおかげで廃止の危機を免れた高知競馬は現在も存続している。生涯負け続けた一頭の小さな牝馬がひとつの競馬場を救ったのである。
余生を謳歌
高知競馬を救った救世主ハルウララは、巡り巡って千葉県のとある牧場に辿り着いた。
そこではその名も「春うららの会」という彼女の幸せな余生を願って発足された会のサポートのもと、未勝利の名馬ハルウララはのんびりと余生を過ごしている。
ありがとう、ウマ娘。
ありがとう、ハルウララ。
史実のハルウララ
基本情報 | 1996年2月27日生 牝馬 鹿毛 |
---|---|
血統 | 父ニッポーテイオー 母 ヒロイン(父ラッキーソブリン) |
馬主 | (有)信田牧場→横山貴男→(株)エムエイオフィス→春うららの会 |
調教師 | 宗石大(高知競馬) |
生産者 | 信田牧場(北海道三石町) |
通算成績 | 113戦0勝 |
主な勝ち鞍 | なし |
生涯獲得賞金 | 112万円 |
エピソード①健在!
現在は千葉県の預託牧場で余生を送っているハルウララ。もうすぐ誕生日(2月27日)を迎えると28歳になる。
ウマ娘で人気が再燃したこともあり、今でも大人気のハルウララ。「春うららの会」は会員多数で新規入会を休止するほどだ。ホームページから元気そうな近況を見ることができるのは嬉しい限り。
※見学は予約制(2023年2月現在)
ナイスネイチャや他の引退馬と同じように、認定NPO法人引退馬協会を通して毎年多くの寄付も集まっているそうだ。
エピソード②地方所属馬唯一の快挙!?
今のところ、地方から中央へ移籍したオグリキャップやイナリワンは別として、地方所属のままウマ娘に実装されたのはハルウララただ一頭だ。それくらい抜群の知名度を誇っていたということだ。
ダート三冠レースが整備され、今後は地方所属の馬もより一層注目されることだろう。ウマ娘にも全国のまだ見ぬ名馬たちが登場する日も近いかもしれない。
エピソード③数々の記録
100連敗を達成したレースでは、ハルウララの単勝馬券の売り上げが高知競馬史上の最高額を記録し、苦境にあえいでいたとは思えない入場人員(5000人超)と多くのメディア関係者が押し寄せた。
そしてレース後には、100連敗達成を記念(?)してセレモニーが執り行われた。異例中の異例と言っていいだろう。
武豊騎手が騎乗した日はもっとすごい。入場人員は1万3千人を超え、高知競馬史上初の入場規制が行われた。ハルウララの出走レースの馬券は5億円超を記録し、1日の馬券売り上げも高知競馬史上最高を樹立。関連グッズの売り上げも何もかも、すべてが記録ずくめだった。
今週の一枚
ウマ娘のハルウララ育成では目標レースで有馬記念に出走することになるが、適性を超えて勝たせてしまう凄腕トレーナーも。筆者はそのレベルではないので普通の勝利シーンだが、史実を考えるとこの1勝が感慨深い。
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