忘れもしない2011年3月11日。角満のゲー漫第3回では角満さんが当時の記憶を思い起こしながらあの日起きたことを語ってくれます。
この原稿を書いているのは、2020年3月11日。
当然のようにテレビや各メディアは、新型コロナウィルスのニュースと並んで、2011年3月11日の東日本大震災を振り返る企画や特番であふれている。
あのとき--。
ファミ通のオフィスは東京の半蔵門にあって、俺はビルの5階にあったニュースチームの島で原稿を書きながら、携帯電話が鳴るのを待っていた。
というのも、じつは翌3月12日にエンターブレインは秋葉原でイベントを行うことになっていて(会社設立10周年のイベントだったかなぁ)、リハーサルの準備が整ったら携帯に連絡をもらうことになっていたのだ。
このイベントで俺は、次長課長の井上聡さんと公開生放送をする予定になっていて、「連絡が来たらすぐに、井上さんに電話しないとな」なんて考えていたことを、不思議なくらい鮮明に覚えている。
そして、
「ぼちぼち呼ばれるかな……?」
と考えながらチラチラと携帯電話を眺めていたとき……突然、その揺れはやってきた。
最初は、コツコツと足の裏をくすぐるような、気持ちの悪い縦の揺れだった。
それが次第に、グワン……グワン……という横揺れに変わっていき、気が付けば……編集部に積みあがっていた雑誌やゲームソフト、テレビやデスクトップPCなどが、片っ端から床に叩きつけられていたのである。
生涯でついぞ感じたことのなかった、衝撃的で破滅的な、恐怖しか感じない巨大な揺れだった。
そこからはもう、メチャクチャである。
悲鳴と怒号が渦巻く編集部に、
「大丈夫ですか!!? 皆さん、落ち着いて!!」
と、当時の取締役が誰よりも慌てて駆けこんできて、「ひとまず、階段を使って外に避難してください!!」とツバを巻き散らして別の階に走っていった。その様子を、記者たちは瞳孔の開いた目で茫然と眺めるしかできなかった。
しかし、お地蔵さんのように突っ立っていても仕方がないので、俺たちは取締役に言われた通り階段を使ってビルの外に出た。
その間もかなりの頻度で大きな余震があり、あちこちから女性社員の金切り声が轟いていたのだが、それ以外は怖いくらい静かな避難行進で、(本当に恐ろしい事態に直面すると、声も出なくなるんだな……)と、自分自身も押し黙ったまま歩いたことを記憶している。
編集部から歩いて1分ほどのところにあった公園まで歩いていくと、近所にオフィスを構えていたガンホーの社員の人々も集まっているのが見てとれた。
見知った顔もチラホラと確認できたのだが、のんきに挨拶を交わす余裕も感情もない。
(家は平気かな……?)
(猫は大丈夫かな……?)
(そもそも……何が起こったんだ??)
そんな想いが、脳内でグルグルと渦を巻くばかりだった。
俺を現実に引き戻したのは、秋葉原のイベント会場に先行で入っていた、部下の女性社員からのメールだった。
「無事ですか!? こっちは……ちょっとどうなるかわからないので、ひとまず井上さんに連絡を取ってみてください!」
このメールを見て俺はようやく、(あ……。イベントか。リハに行くんだったっけ……)ということを思い出す。しかしどう考えても、そんなことをやっている場合ではなかった。
「わかった……けど、それどころじゃないわ……」
部下にそう返し、すぐに井上さんに連絡。なかなか繋がらなかったがどうにか電話をすることができ、
「大丈夫ですか!? ひとまず今日は、ナシにしましょう! 情報が集まらないとどうなるかわかりませんが、明日のイベントも中止の公算が高いと思います!」
「ですね……。それどころじゃないですよ」
そんなやり取りをして電話を切った。手と声が、自分のものとは思えないくらいブルブルと震えていた。
それからしばらくして編集部に戻ったのだが、その散らかりっぷりはハンパではなかったよ。
もともと、お世辞にもキレイとは言い難い、モノであふれた編集部だったので、まともに歩くことすらままならないくらい床に紙やらゲームやらが落ちている。
ここで、当時の編集部の写真を載せようかと思い、八方手を尽くして探したのだが、俺も、そして当時目の前の席に座っていた中目黒目黒(ファミ通時代からの盟友)も、まったくその様子を写したものを持っていなかった。
職業柄、何かあったときは写真を撮るクセがついているのだが、あのときはそんなことすら考えられないくらい混乱していたんだと思う。
当時を写した写真で残っていたのは、下の信号機くらいだった。
けっきょく、3月12日に予定されていたファミ通のイベントは“中止”となる。
当然、会場のディスプレイとか当日のプログラムとか放送の用意とかとか……事前準備のほとんどは終わっていた段階だったが、「日本中がとてつもないことになっている。そんなことを言っている場合ではない」ということで、前日の夜の段階で中止は決定した。
本当に、それどころではなかったのだ。
その日……俺はどうやって過ごしていたんだろう。
金曜は通常、記事の校了日だったので深夜まで編集部にいたと思うのだが……その後にテレビで流れた各地の映像を、ただただ震えながら見ていたことしか覚えていない。
そんな中でも仕事をしていたのか、それとも切り上げて30キロ以上の道のりを歩いて帰ったのか……これほどまでに記憶が抜けていることに、いま改めて驚いている次第である。
あれから、9年――。
時の流れは記憶を風化させていくものだが、当時見た映像や自分の感情、そして……日本の叫びは、消そうと思っても消えるものではない。
亡くなられた多くの方への哀悼と、いまだ被災生活を余儀なくされている方々へのお見舞いの気持ちを込めて、改めて2011年3月11日という日に起きたことを心に刻み込もうと思う。
(おおつかかどまん)
20年以上にわたりファミ通で記者、編集長などを務めつつ、自ら著者としてゲームプレイ日記の単行本、『逆鱗日和』シリーズ、『熱血パズドラ部』シリーズなどを上梓。ベストセラーとなる。2019年より独立し、パズドラのストーリーダンジョンのシナリオ担当を務めるなど、活動の幅を広げている。 |